- 2017-9-28
- HP制作と運用
先日、私の尊敬する経営コンサルタントの先生の記事に痛く共感したので、紹介します。
ご参考:「ビジネスで「結果を出すクセ」をつける、たった1つのポイント」
結果を出す癖
上記の記事の中に、「結果を出すクせ」をつけるには、「とにかく結果を出すこと」 とあります。
- 何やら「元も子もねーじゃねーか」的結論です。
- でも、私は「そりゃそーだ」と合点がいったのです。
というのも、「結果を出す人」は特別な人ではなく、
- 努力の人であり、
- 諦めない人であり、
- 工夫の人である
と思ったからです。
私の経歴
自分で言うのもなんなんですが、私は社会人になってから、相当苦難の道を歩んできました。
つい最近、その事実を人に指摘されるまで 「苦難の道を歩んできたこと」をあまり自覚してなかった のです。
言われてみれば確かに、その都度その都度、躓き、悩み、途方に暮れてたような気がします。
でも、なんて言うんでしょうか。今回 わざわざ思い出したから、思い出せた 感じです。
何故なんでしょうか?
ちょっと整理してみましょう。
- 1990年、私はバブルの絶頂期に大学を卒業しました。
- 私の出身は、神戸女学院大学、音楽学部、ピアノ科。
- 就職先は、松下電器産業株式会社(現:Panasonic株式会社)、配属先は情報システム部門。
もう既に、充分な違和感 を覚えましたよね?
このミスマッチが実現した理由は大きく3つ。
- 時はバブルの絶頂期。今では考えられないほど、圧倒的な「売り手市場」だったこと。
- システムエンジニアの適性検査があり、まさかの「適正有り」判定だったこと。
- 恐らく、音楽学部出身の私にふさわしい部署は、他になかったということ。
そんな訳で、その当時大きな需要のあった情報システム部門に配属されることとなりました。
当時の私と言えば、
- 「お洒落」と「美味しいもの」と「恋愛」のことしか考えておらず、
- 当時の電気業界は「半導体なしに、何も語ることはない」という中で、その「半導体」を知らないまさに「もぐり」です。
そんな私が採用されてしまうという「時代背景」がありました。
面接の思い出
大企業にありがちな「圧迫面接」的なものを経験。
- 「君がこの会社に入って、男の子と肩を並べてやっていけるとはとても思えない」と脅され、
- 世間を知らない私はたじろぐことなく「何故ですか?私は頑張ります!頑張れます!」と 根拠のない自信 を振りかざして無事通過。
少々知恵のついた「今の私」が「圧迫面接の存在」を知らずに、「圧迫面接」に直面したら、
たじろぎ、萎縮し、先方の術中に見事にはまってしまっていたことだと思います。
世間知らず、あな恐ろし。
試練は、入社当日から訪れる
「会社で働く」ことを、割りと安易に考えていた私は、初日から不穏な空気に包まれます。
- 帰国子女が「In my opinion!」と英語で挙手し、
- 私が知る由もない「半導体」がやたらと話題に挙がり、
- 一部の野心に満ちた男子は「夢は社長になること」と言い出す始末。
- これが「君がこの会社に入ってやっていけるわけがない」っていうことだったんだな。
- ちゃんと、認識しておくべきだった。
- とんでもないところに紛れ込んでしまった。
- 明日からの身の振り方が分からない。
- 私の未来が見えない。
もう、不安でいっぱい。逃げ出そうかと思いました。
得るものあれば、失うものあり
時代が時代なら、私は間違っても採用されることなどなかったと思います。
- 志望動機も乏しく、
- なりたい自分像も正しく描かれてはおらず、
- 自分がどう、会社に貢献できるのかなど、考えてもいない。
そんな学生を、採用してくれる会社など、今の社会には存在しないと思います。
一方で、そんな昔の私には、今の私にはない「魅力」がいくつか思い当たるのです。
- 世間を知らないからこその「根拠のない自信」があり、
- 誰とも比べていなかったから「自分自身を卑下する」こともなく、
- 「何が何でも採用されたい」欲望もなかったから天真爛漫だった。
いずれも、今の私には逆立ちしても、真似することなどできません。
「何かを手に入れれば、何かを失う」とはこのことでしょうか。
そんなことはさておき、7ヶ月間の新入社員研修を終え、正式配属されてから、私の試練は更に具体化します。
私の「お役立ち」の方法を見つける
システムエンジニアの適性検査を受け、「適正」が認められたものの、
情報システム部門に配属されてから、私のIT音痴、IT嫌いを自覚することとなります。
- そういえば、私はもともと「機械音痴」。
- そんな私が、ネットワーク設定や機器設定に親しみを持てるわけがない。
時、既に遅し。
人間、苦手なことを克服するのは難しいもの。
- 努力の末に克服したとて、それはよく見積もって人並みになれるだけのこと。
- つまり、真っ当にいけば「この職場に私の居場所などない」
と、私は早くに悟りました。
- 「私の居場所がない」のであれば、私は「居場所を探さなくてはいけない」。
- だって、私はなんとしても、お役に立たないと会社のお荷物になってしまうから。
「お荷物になるのは絶対いやだ!」そんな切羽詰まった想いで、ずっと「私がお役に立てる居場所」を探し続けていたようです。
まず最初に見つけた私の居場所。それは IT音痴だからこそ出来ること。
「ITに詳しい人と、ITに疎い人の会話には困難が伴う」ことに目を付け、その間を繋ぐ人になろうと。
そこに「私のお役立ちの可能性」を見出したのです。
そして間もなく、私の中から自然と芽生えた発想。
なんでもシステム化するだけが脳じゃない。
- ITへの苦手意識が、システム化に対する「疑問」を生み、
- 「新たな視点」を持つことで、「新たな発想」が生まれるということ。
これが後に、IT音痴の私のアドバンテージとなっていきます。
私だけの「新たな価値観」に目覚める
時の経過と共に、私は「ITではない何か別の役立つスキルを身に付けたい」と考えるようになります。
時は1998年。アメリカから遅れること10年。日本でも「営業活動にデータを活用する」という新たな試みが始まります。
何か別のスキルが欲しかった私は、迷わず立候補。
自ら名乗り出たことで、私はたった一人の「データ活用担当の座」をゲットしました。
そして、データ活用担当となって、新たに芽生えた想い。
- 説得力のある提案をしたい。
- 説得したいわけじゃなく、「なるほどね」と納得してもらいたい。
そのために必要なもの。
- 裏付けとなる「数字」であり、
- 裏付けとなる「事実」。
- そして、きっと得られるであろう「期待効果」。
「数字」と「事実」は、組織として合理的な判断を促すのに、必要不可欠なものだと、気付くことになりました。
そんな訳で、無類のIT音痴だったからこそ、私は情報システム部門で、実に珍しい独特な育ち方をすることになりました。
- 自分では「それはそれで楽しかった」と思っていたけれど、
- よく考えてみれば、それしか私には「生きる道がなかった」だけのこと。
- だから、IT部門で「当たり前の価値観」とは全く異なる「新たな価値観」を、自ら作らざるを得なかっただけのこと。
- でも、音楽学部卒業の私が「そもそも評価されるわけなどない」と思っていたから、特別落ち込むこともなかった。
- だから、驚くことに「苦労」を「苦労」と思わずに、苦労してきてしまったということ。
ある意味幸せというか、とても不思議な感覚です。
「考え抜く癖」
他人事みたいな発言になるのですが、
私は相当苦労して、出来ない自分の中に「人のお役に立てる自分」を見出すことに成功したようです。
- IT音痴だったからこそ、ITに囚われない視点を見つけることが出来たし、
- システム視点で考えるより、運用する人の視点をで考える方が楽しかった。
それが結果的にお客様にうけたんです。
普通に考えると、IT部門におけるIT音痴は、「煮ても焼いても食えぬ」ゴミ でしょう。
でも、私は諦めなかった。
- どうしても、私はお客様の役に立ちたかったし、
- 会社のお荷物になるわけにはいかなかった。
- そして、何故か私は誰かのお役に立つことが出来る筈、と思っていたから、
- 探して、探して、探しまくった。
- 考えて、考えて、考えまくった。
そしたら、それがいつの間にか「なんかいい方法はないかなー」と考えることが「癖」になっていたんです。
そうこうするうちに、どんなことでも「気になること」が発生したら、意識してか、無意識かは別として、
常に何か解決策、打開策を考える癖がついていたんです。
そんな経験を通じて、考え抜くことこそ、「結果を出す」ことに近づく たったひとつの方法 ということを、身をもって知っていたんです。
ホームページ制作には欠かせない力
「考え抜くこと」は、一度癖になってしまったら、今度は止められない。
その癖が今、お客様のお役に立てるポイントになっている、と思うのです。
ホームページ制作の際、大事なことはお客様の「目的や課題」に寄り添うこと。
- お客さんの悩み、困り事、目的、野望を見つけ出し、大舟とは言えないまでも、小舟にはなりたい。
- 私達に出来ることなんて、たかがしれているかもしれない。
- でも、きっとお役に立てることがある筈。
何故なら、IT音痴の私でも、IT部門で充分に活躍することが出来たんだから。
- その事実が、「どんな逆境でも、何か出来ることがある」という自信の源であり、
- 考え抜く癖が、「私に何かを」もたらしてくれるのです。
我々は、必ずや御社のお力になれると、信じてやみません。