最近、歯医者さん選びに悩まされています。
昨今の歯医者さん事情
今、全国に7万軒もの歯科医院が存在しています。全国どこに行っても見かけるコンビニでさえも、約5万店。
何故、こんなにも歯科医院ばかり増えてしまったのでしょうか?
- 毎年9,000人もの歯科医の卵が大学を卒業し、
- 歯科医(だけではないにせよ)は、総合病院という受け皿が極めて少ない、
という特殊事情から「開業せざるを得ない」ことが原因のようです。
私個人的に、歯医者へのニーズを金額換算してみました。
- 1ヶ月に10回以上コンビニに行くのに対し、
- 歯医者さんへの通院は、平均しても3ヶ月に1回
というところでしょうか。
- コンビニで使う金額が1回500円として、月5,000円以上/人に対し、
- 歯医者さんで支払う金額が1回3,000円として、一ヶ月平均1,000円。自己負担3割として、月3,333円/人。
少なくとも コンビニよりも分が悪い ということになります。
私の実体験に基づく歯医者事情
実際、私の家からの徒歩圏内の歯医者さんは、知っている範囲で10軒以上あり、
ネットで調べたところ、徒歩圏内に20軒以上存在しているようです。
歯医者さんに普段用事はなくても、突然、必要に迫られるという特質上、家から近いに越したことはありません。
家の近くで歯医者さんをずっと探し続けているのですが、なかなか「いい出会い」がありません。
何がよくないのでしょうか?私の実体験を挙げてみましょう。
- 実体験①:仕事熱心なのかもしれないが、直接的な問題がなくなっても口内洗浄のための2週間に1回の通院を強制される。
論理的には正しくとも、特に大きな効果を感じられず、面倒な上に、思いの外出費が嵩む。 - 実体験②:虫歯を治してもらったのはいいが、治し方に問題があり、治してもらった歯で咀嚼することが出来ない。
歯医者としての素養を疑わざるを得ない。 - 実体験③:特に問題のない「前歯の差し歯」のやり直しを薦められる。
治療から長い年月が経過しており、一定の理解は出来るものの、商売のにおいを感じてしまう。 - 実体験④:歯槽膿漏の検査を行い、歯が揺れているにも関わらず、歯槽膿漏を指摘されるでもなく、原因も告げられない。
原因不明の歯の揺らぎに、ずっと不安を抱えることに。その後、別の歯医者で就寝時のマウスピース装着を薦められ、窮地を脱出。
心の中に芽生えたひとつの疑問
- 昔、私にとって、歯医者さんは間違いなく「お医者さん」でした。
- 今、私には、歯医者さんは「お医者さん」というより「商売人」に見えています。
本来、
- 「歯医者さん」は「お医者さん」でなければならず、
- 「歯医者さん」は「商売人」であってはいけない
と思います。
「全ての歯医者さんに問題がある」とは思っていません。
今でも「医者」として役割を全うしている歯医者さんも、たくさんいらっしゃると信じています。
ただ、「歯医者さんをちゃんと選ばないと正しい治療が受けられない時代」になってしまったという残念な想い。
- 実体験②のように、虫歯は治っても、歯として機能しない。
そのまま放置すれば、顔の歪み → 身体の歪み → あらゆる病気の原因にも。 - 実体験④のように、歯槽膿漏ではないからと、放置されれば問題は解決しようもない。
そのまま放置すれば、歯を失い、それが原因で、他の歯も失うことになりかねない。
「虫歯が治りさえすればOK」という医者としてあるまじき考え方。
歯医者でありながら、患者の歯の将来について何も考えてくれていません。
今、この歯を治して欲しいだけでなく、出来れば未来永劫健康に保ちたい、と思ってることぐらい、わかってる筈です。
費用とは、価値あるものに支払う対価でなければいけない
ビジネス感を漂わせる歯医者さんに対して、不信感が芽生えます。
突き詰めれば、歯医者さんが悪いのではなく、歯医者さんに「しのぎを削らせる」世の中の仕組みが間違っているのかもしれません。
今や、歯医者さんも、我々ホームページ制作会社と何も変わらないということ。
- 虫歯だけを治す歯医者
- お客さんの言うことだけ、代行するホームページ制作会社
ビジネスの世界では「選ばれるもの」と「選ばれないもの」に分類されます。
- 将来的な「歯と身体の健康」を考えてくれる歯医者さん
- お客さんの見えてる範囲だけでなく、将来的なホームページの有効活用や、抱える問題点まで提案できる会社
選ばれる「医者」「会社」を目指すということです。
ただ、同じと言えども、「歯医者」と「ホームページ制作会社」では、大きな違いがあります。
- 「自分の歯」はちょっといした異常にもすぐ気付く一方で、「ホームページ」は気にさえしなければ、何も感じない。
- つまり、「歯」が悪ければ、様々な不都合が発生するけれど、「ホームページ」が悪くても、気にしなければ何も困らない。
ということ。そんな事情があいまって、
前向きではあるけれど、お金をかかる提案をすれば、ぼったくり会社と間違われるなどの不幸が時折発生します。
こんなにもITが普及し、恩恵を受けているにも関わらず、未だ、ホームページのことを正しく理解している人は少数派。
「知らない」ってことは実は「罪」だと思うんです。
実は世の中、知らないことだらけ
自戒の念も込めて、世の中、知らないことが多すぎます。
つい先日、プロのカメラマンの方とじっくり話をする機会に恵まれました。
ある商品を撮影した写真を見せて頂きました。実は、その写真撮影に丸3日間を費やしていると言うんです。
3日間?
素人には、数点の商品の写真を撮影するのに、3日間という期間を要する意味が分かりません。
聞けば「対象となる商品」だけを撮影するには、大掛かりな装置が必要になると言います。
そういえば、これまで意識することのなかった「ある対象物だけを際立たせる」ということ。
誰かにあるモノのイメージを伝える際、写真はとても便利です。写真撮影開始を開始すると
- いらないものが映り込んだり、
- 影が出来て、うまく撮影できなかったり、
- 光が反射して、うまく撮影できなかったり、
- 室内灯の影響で、実際の色が再現できなかったり、
- 光沢のある素材の場合は、鏡効果でいらないものが対象物に映り込んだり、
と様々な問題が発生します。
でも、私にとって「大きな問題」ではなかったので、気にしていなかっただけのこと。
本当は難しいことを体験していたのに、知らなかったんです、わかってなかったんです。
人って本当に不思議なものです。
状況が変われば、ニーズも変わる
これが、高級感を損なってはいけない商用写真ともなれば、状況は一転。
「小さな問題」が「大きな問題」となり、その問題を解決するためには大掛かりな装備が必要になるということなんです。
- 大掛かりな装備の設置に丸一日を費やし、
- 様々な手法、アングルなど、納得いくまで写真撮影を繰り返し、
- それでも、撮影だけで表現できない部分は、パソコンのグラフィックで微修正をかける
執拗に拘り、ベストを追及しつくした結果、あたかもそこに、現物が存在しているかのような写真が完成するのです。
- 何の前提知識も持たずに見た写真と、
- 上記の説明を受けた後に見た写真は、
全く同じものなのに、違うもののように見えるものです。
当然のことながら「私には撮れないきれいな写真」であることには変わりないものの、
その写真の価値が 何倍、何十倍に増幅 されるのです。
「知る」「気付く」「分かる」だけで、大きく意見が変わるということです。
「知る」ことの価値、「伝えること」の重要性
- 知らないからこそできる「不当な要求」
- わからないからやってしまう「理不尽な要求」
実情を知り、理解していたのなら、恥ずかしくて絶対出来ないことばかり。
- 知っているからこそ、「知らないこと」を恥ずかしく思う。
- わかっているからこそ、費やされる労力に敬意を払うことが出来る。
というものです。
一方で知らないということは、
- 「騙される」リスクを背負うことでもある。
- 「知らない人」は「知らない人」なりの対応しかしてもらえない、という不利益を被ることでもある。
だからこそ、「知る」ということには、大きな価値があると思うのです。
「知らない」ことの罪と悪。
それは
「正しく伝えられていない」ことの罪と悪。
やはり、伝えるべきことを伝えていく努力、続けていくしかなさそうです。